
春日神社と「野田藤」の歴史
はじめに
春日神社は、大阪市福島区玉川2丁目2-7にあり、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、天照大神、宇賀御魂神が祀られている。天兒屋根命は、津速産霊(造化の三神)の内の一神で、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の祖神と言われており藤原氏の氏神である。天照大神は日本神話における太陽神である。宇賀魂神は、須佐之男命(すさのおのみこと)神大市比売命(かみおおいちのひめのみことと)との間の子で穀物の神である。末社には「白藤社」と「影藤社」がある。毎年、4月29日に春の例祭が行われている。
春日神社の起源
『大阪地誌事跡辞典』によれば、古くから野田は春日信仰の盛んな地であった。春日信仰とは、奈良・春日大社の祭神である春日大明神(藤原氏の氏神・祖神である四座)に対する信仰である。奈良春日大社の実権を握った興福寺が積極的に信仰を広めたことにより、春日詣でが盛んとなり、各地で春日社の勧請が行われ、春日講も増えていった。これは平安時代末期から鎌倉時代にかけての流行であることから、野田の春日神社もその頃に勧請されたと考えられる。また、藤原氏にちなみ藤を植えたところ、当地の地質に適し、よく繁茂したと伝えられている。野田の春日神社は、奈良春日大社の分社であると考えられている。
野田藤のあけぼの
『源平盛衰記』には平清盛の末弟薩摩守が摂津の国を巡見した際、難波の浦の名所を次のように描写している。「里には長井の里、玉川の里とあるは、此に移り彼に見えて見渡して見給う中にも、難波の浦こそ古の事思い出しつつ哀れなり」この一文から平安時代末期にはすでに、現在の野田玉川付近は貴族の間では名所として知られていたと思われる。
鎌倉時代の初め、淀川河口の近くに「野田郷」と呼ばれる集落があった。現在の大阪市福島区野田玉川付近にあたる。当時は、あたりは一面フジが自生し、春になるとその花は松の枝から枝へとからまり、あたかも花の浮き橋を形作っていた。この光景を、最初に和歌に詠んだのは時の太政大臣西園寺で、 難波かた 野田の細江を見渡せは藤波かゝかる花の浮橋
南北朝時代の貞治三年(1364)春、室町幕府二代将軍・足利義詮は、『義詮難波紀行』に、「それ(田簑島)より南にあたりて、野田の玉川というところあり。この川のほとりに藤の花が咲き乱れたり」と記され、”紫の雲をやといはむ藤の花 野にも山にもはえぞかかれる”と詠みました。
戦国時代から安土桃山時代の野田藤
戦国時代の野田と一向一揆
戦国時代半ば、織田信長誕生の2年前にあたる天文元年(1532)、畿内では大きな戦乱が起こっていた。本願寺第十世・証如上人と、畿内有数の武士勢力であった細川晴元との争いは足かけ四年半に及び、「畿内天文の一向一揆(または一向法華の乱)」と呼ばれている。この戦乱が始まった同年8月9日、戦火は本願寺の膝元にまで及び、証如上人は危機的な状況に陥った。その際、野田村の門徒たちが上人を救出し、そのために二十一人が討死したと伝えられる。証如上人は、討死した門徒たちの忠義を深く称え、その子孫のために感状を与えた。この感状は、現在、円満寺(大阪市福島区玉川四丁目)および春日神社に伝えられている。
また、この合戦により、野田の地では藤の木や家屋敷が焼失したとも伝えられており、当時の戦乱が地域に及ぼした被害の大きさを今に伝えている。
「野田惣中へ 證如 今日の合せんに廿一人、うち死にのよしいたはしさせひにおよはす候、しかれともしやう人の御方を申されたのもしくありかたく候。うちしにのかた々々はこくらくのわうしやうをとけられ候はん事うたかひなく候、いよいよちさうたのみ入候、此よしちしにのあとへもつたへられく候 あなかしく 々々 八月九日 證如 野田惣中へ」
その後、上人から方便法身の阿弥陀如来像が藤家当主に下賜された。春日神社に伝わる。



「野田福島の合戦」(1回目)
戦国時代末期の元亀元年9月、三好三人衆(三好長逸・三好・宗渭・石成友通)は野田福島の城に籠城し、織田信長を迎え撃った。「野田福島の合戦(第1回)」といわれる。この合戦はその後10年続く「大阪本願寺合戦」(いわゆる石山合戦)の発端となった。春日神社は野田城の北東部に位置していた。戦国時代、打ち続く合戦で、野田の細江一帯に繁茂していたフジの木は大部分切り払われたと思われるが、春日神社周辺のフジは奇跡的に生き延び、秀吉の天下統一を迎えることができた。

秀吉の藤見物伝承と「野田の藤」の全盛期
春日神社に伝わる『藤伝記』には次のように記されている。
文禄三年春、太閤秀吉公、藤の花盛の頃、義詮公も古跡をしたわれた地だということで、ひこばへの花ゆかしく思われ御遊覧に来られ、藤の庵で御茶を催された。興に乗って、藤庵の文字を御傍衆の曽呂利に書せ、藤主へ下し給ふ。代々に伝へ、世の人知る所第一の什物である。
以後、周囲には多くの茶店や楼閣が建ち並び、庶民の間で野田藤は一躍名所として知られるようになった。「吉野の桜、野田の藤」と小節を付けたわらべ歌にも謡われ、広くもてはやされて後世に伝えられている。野田藤が最も繁栄し、人々に親しまれた全盛期は、まさにこの頃であった。

大坂の役の前哨戦「野田福島の合戦」(2回目)で壊滅した「野田の藤」
『西成郡史』によると、江戸時代初期には、大坂の陣の前哨戦「野田福島の合戦(2回目)」で周辺の民家もろともフジの古木は戦火に遭い、付近は”人住まぬ野良”となった。大坂で最初の地誌『蘆分け船』(延宝3年・1674)には次のように描かれている。
野田:
福島といふ所より西のかたあにあたりて 名にしおふたる野田という里あり。されば「吉野の桜に、野田の藤、高尾の紅葉」などと、熊野の海女 犬うつ童も唱歌しける名所 これ見ても見ても見飽ぬなるべし そのかみ慶長年中の頃まで(大坂の陣まで) 見物の貴賤 群集して この藤を愛でぬ人はなかりしとや されども 時移り事去り 楽し日月 華やかな時の 楼閣なども人住まぬ野良となり、所々に 此の方ばかり残りて 昔のフジの古枝は枯槁せり。

同じ頃、大和の国学者・下河辺長流(ながれ)も藤家の屋敷に逗留し、次のような詞書と和歌を残した。
咲く花の下にかくるゝ人おほみとよめるうた哥ハ、いにしへ藤氏の栄花のさかりによせたるなるべし。これハ近き世に豊臣の太閤あさの衣のひとへよりおこりて、つゐに我大やまとをさへおほひ余れる袖のいきほひ、遥かなる唐土までもおびやかし玉ふる時に、あひに相たるさかりを見へて、名ハ高浜の松のひゝきと四方に聞へし藤なりけむ、今その古根のひこはへ猶いほり庭に残りて春を忘れぬかた見なりければ、ゆかりの色を尋ね来りてみる人の絶ぬもあわれなり、それが中にほり江の河の長き流れを名とせる翁ありてかく敍みたりし
ミつ塩の時うつりにし難波津に有りし名残の藤波の花 長流

江戸時代の春日神社と野田藤
野田藤の歴史を伝える「藤伝記」
「野田の藤」には、長い栄枯盛衰の歴史がある。この「藤伝記」は、その歴史の前半を伝える古文書です。鎌倉時代から江戸時代初期にかけての「野田の藤」について、藤家九代・藤宗左衛門宗慎が、断片的に伝えられてきた記録や伝承、伝説を集め、貞享三年(1686)にまとめたものとされています。原本は残っておらず、宝暦年間頃に編集された写本が春日神社に残っている。これは版本として出版され、その一つが国会図書館に所蔵されています。




「藤乃宮」と言われた野田藤の最盛期
宝暦8年(1758)頃、春日神社は度重なる戦火からようやく復興を遂げた。宝暦8年寅年3月21日から同年4月25日まで、本社修覆のため開帳が行われたことが記録に残っている。この折、代官・内藤十右衛門が藤見物に訪れており、また天明四年辰年3月19日には、御城代・戸田因幡守が参拝し、藤を観賞したと伝えられている。さらに天明9年(1789)には、幕府巡見使である備後守、遠藤兵太夫、杉原八左衛門、三宅権十郎らが藤見物のために来訪したことが記されており、当時すでに「野田の藤」が広く知られる名所であったことがうかがえる。

摂津名所図会に描かれた春日社と野田藤
寛政8年(1796)から10年にかけて発行された、秋里籬島著、竹原春朝斎画による『摂津名所図会(ずえ)』には次のように記されている。
天文年中逆乱時、この藤、兵火に罹りて亡ぶ。ただ古跡のみとなりしを、文禄年中秀吉公ここに駕をめぐらされ、紫藤の僅かに残りしを御遊覧あり。その時、御憩所の亭を藤の庵と名づけさせられ、御傍衆曾呂利新左衛門に額を書かせ下したまふ。その後、秀吉公御曾甥、下河辺長流といふ風流人ここに来り詞書して一首の和歌を詠まれける。
春日祠 野田村、林中にあり。当所藤によりて藤原の祖神を祭るならんか 野田藤 春日の林中にあり。むかしより紫藤名高くして、小歌節にも、吉野の桜、野田の藤と唄へり。弥生の花盛りには、遠近ここに来りて幽艶を賞す。茶店、貨食店ところどころに出だして賑ふなり。

藤野田村とよばれた幕末近くの野田藤
昭和五十二年(1977)、圓満寺(大阪市福島区玉川四丁目)において建物の改装工事が行われた際、床下から約五千点に及ぶ江戸時代後期の近世古文書が発見された。これらを調査した結果、野田村のことを「藤野田村」と記した文書が三十二例確認された。この呼称は、文政四年(1821)から慶応二年(1866)までの約四十五年間にわたり、宗旨送り状などに用いられていたことが分かっている。もともとは野田村の住民が自らの村を「藤野田村」と称していたものが、次第に他村からの送り状にも同様の表記が用いられるようになったと考えられる。その使用範囲は、江戸の寺院や安芸国倉橋島など、広い地域に及んでいる。これらの文書は、野田が藤の名所として、庶民の間に自然な形で広く認識されていたことを示す貴重な史料である。なお、「藤野田村」という名称は公的な文書には見られず、あくまで民間において愛称として用いられていたものと考えられている。
明治・大正・昭和・平成の「野田藤」
明治時代以降衰えた野田藤
明治36年(1903)に書かれた『大阪年中行事』によると、維新前に大部分の藤は伐採され、こじんまりした藤棚にまとめて育てられ、往時の面影は失われた。
近頃は玉川も名ばかりで、芥川になって居る。勿論山吹などは影も見えぬ。以前は野生の藤の古いのもあって、一寸風みやびに見られたけれど、維新前に伐り払って、其後また植ゑたのであるから、今度は極て俗な柵の藤になって居る。その棚の下に床凡を置いて、藤見の客を引くのであるが、何処へ来ても趣味が無い。割子弁当で騒ぎ廻る客ばかりで、花は悲しさうに俗客の玩弄物になって居る。
大正の頃の野田フジと春日神社は、『大阪府全志』に次のように記録されている。
野田の藤は玉川町一丁目にあり、古来有名なる野田の玉川の藤にして、貞治三年足利義詮は住吉参詣の途次駕を巡らしてこれを賞し、その姿を玉川に擬して和歌を詠ぜしかば、是れより野田の玉川の藤とは称せしとなん。池辺に石を建て其の歌を刻せり。当時の藤花はすこぶる盛んなりしものならん。然るに天文年中兵火に遇ひて亡失し、遂に昔日の名残を存せるに過ぎざりしが、文禄年中豊臣秀吉は此に駕を巡らして尚これを賞し、亭を藤の庵と号し、曾呂利新左衛門をして額を書かせしめてこれを下付せりといふ。(以下略)

空襲と洪水により壊滅した野田藤
第2次大戦末期、昭和20年6月1日の空襲で、藤庵と呼ばれた屋敷とフジと共に大部分の古文書や書画骨董類も焼失した。一時フジは蘇っていたが、昭和25年9月のジェーン台風で塩水を冠水したり、日照も悪くなって樹勢は衰え花を咲かせなくなってしまった。昭和46年には阪神高速道路神戸線の工事に伴い、藤庵の庭のある家も立ち退きにあった。この時、最後に残っていた2本のフジの古木も、樹勢が古いため移植は困難と判断され切り払われた。藤庵の庭は、下福島公園に移された。春日神社境内には「野田藤の跡」の石碑が大阪市の手によって建てられ、フジの古木は野田玉川から完全に姿を消し、長い野田藤の歴史に終止符を打った。
ライオンズクラブによる野田藤の復興活動
その後、野田の藤は地元の人からもすっかり忘れ去られてしまった。昭和46年、大阪福島ライオンズクラブ創立メンバーの一人・フジタ病院長(故)藤田正躬氏と玉川の歯科医(故)伯方時夫氏が『玉川百年のあゆみ』から、忘れられていた『野田の藤」を発見し,ライオンズクラブは組織をあげて復興活動に取り掛かった。


「福島区の花」となった「のだふじ」
こうした努力、区民の協力に答える形で、平成7年に「のだふじ」は福島区の花に指定され、町おこしの一端を担うようになった。それまで三つの草花(ビンカ・マリーンゴールド・バラ)から変更するためには、関係者は苦労をしたがそれを何とか乗り切った。あらゆるものに前の区花がデザインされており、これらを野田フジに代えるために大変な労力と費用がかかったが、今は区職員の名刺を初め色々のものに野田フジの花をあしらった区のマークがデザインされている。町名表示も藤色にされている。

「のだふじの会」による開花活動
フジという花木は手入れしないと咲かない。ライオンズクラブの努力にもかかわらず、福島区内各所に植えられたフジは平成18年ごろには、ほとんど咲かなくなってしまった。この状況を見て平成18年7月、連合町会・ライオンズクラブ・福島区医師会の協力を得て区民のボランティアー団体「のだふじの会」が設立された。福島区地域振興会(連合長会)の支援を得て、会員各位の熱心な努力の結果、福島区内約30か所の藤棚のフジが咲くようになった。

令和 コンテンツ・ツーリズムとなった「区の花・のだふじ」
令和2年、人気アニメ「鬼滅の刃」第4部でフジが鬼を退治する物語で、子供達の間でフジの人気が急上昇した。次いで令和4年、日本のフジの和名を「ノダフジ」と命名した植物学者・牧野富太郎博士を主人公としたNHKのドラマ「らんまん」で、同博士の名と共に「ノダフジ」という名前の発祥地・春日神社も広く知られるようになった。更に令和6年、新5千円札の裏面のデザインに「ノダフジ」がデザインされるに及び、春日神社とそこに咲くフジは大阪の観光名所となった。
SNS上では「ノダフジの聖地」と言われている。
大阪府で住みやすい街(自治体)ランキングで、福島区は2位に選ばれた。その理由の一つが”フジで有名な春日神社”であるという。
福島区のフジを見に訪れる人々は、ノダフジにまつわる様々な「物語」-ナラティヴ-を楽しみながら”区の花・のだふじ”を鑑賞しているのです。


『浪花のみやび野田の藤』
「なにわのみやび野田のふじ」
藤 三郎 著 / A5判 / 上製 / 198ページ
定価4,180円(本体3,800円+10%税)
鎌倉時代の貴人から江戸時代上方見物の庶民にまで名高く知られた野田のふじ。その伝承と変遷を綴る。

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