
藤の文化史
古事記に見る藤の伝承
フジが日本の記録に初めて登場するのは『古事記』応神天皇の条に見える、秋山の下火壮夫と春山の霞壮夫、そして出石乙女の婚姻説話です。美しい女神・出石乙女には多くの神々が求婚しましたが叶わず、兄神と弟神は乙女をめぐって賭けをしました。母は弟神のためにフジの蔓を用い、一夜で衣装や履物、弓矢を作り与えます。するとそれらはすべてフジの花となり、乙女の心を動かしました。弟神はその不思議な力に導かれて乙女と結ばれたと伝えられています。この物語は、フジが恋の成就を導く神秘的な力を持つ植物として認識されていたことを示しています。強靱な生命力と繊維の強さを備えていたため、古代の人々は花の美しさだけでなく、実用的な植物としての性質にも注目していました。

万葉集に見る藤の和歌
春日野のふぢは散りにて何をかも御狩の人の折りて插頭さむ 詠人不知(十-一九七四)
奈良の春日野、現在の春日大社周辺は古来より藤名所でした。万葉集で詠まれたフジはヤマフジ系の白藤だったと思われます。古代人はフジ(ノダフジ)もヤマフジも区別していませんでした。
江戸時代には、「春日野の藤」は「牛島の大藤」・「野田の藤」と並んで「日本の三大名藤」の一つに数えられていました。
春日野のフジは、若草山周辺の原生林のそこここに昔に変わらず現在も咲いており、特に春日大社の拝殿の裏に回ると豪快に咲いているのを見ることが出来ます。

大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも 詠人不知(十二-二九七一)
須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず 大綱公人(三-四一三)
「海女の着ている藤衣は縫い目が粗いのでまだ着慣れない」との意で、藤布は新しい間は繊維が固いので、馴染むまでは皮膚がすりむけることもあります。このことを公人はよく知っていました。藤布は縄文時代を起源とする日本最古の織物で、粗末な仕事着として使われていました。体にまとわりつきにくく安全なので、特に海女達は好んで使っていましたし、それは最近まで続いていました。また平安時代には貴族の喪服としても広く使われていました。

中世藤の和歌にみる野田藤
西園寺公経藤の和歌-鎌倉時代初期-
難波かた野田の細江を見渡せは 藤波かゝかる花の浮橋 公経
鎌倉時代初め、淀川河口近くには野田郷と呼ばれる集落がありました。現在の大阪市福島区野田・玉川付近にあたります。当時、この一帯には藤が一面に自生し、春になると松の枝から枝へと絡み合い、まるで「花の浮橋」のような景観をつくり出していたといわれています。
この風景を、当時の太政大臣・西園寺公経が詠んだのが上記の和歌です。公経は鎌倉幕府と深い関係を持ち、朝廷内で大きな権力を有していました。この和歌は、朝廷と幕府の間で栄華を誇る自身の立場を、「花の浮橋」に重ね合わせて詠んだものとも解釈されています。


足利義詮の住吉詣で
貞治三年(1364)春、室町幕府二代将軍・足利義詮は、住吉詣での途中に野田に立ち寄り、藤を見物したと伝えられています。その折に詠んだ和歌を、春日神社に奉納したとされています。『義詮難波紀行』には、「それ(田簑島)より南にあたりて、野田の玉川というところあり。この川のほとりに藤の花が咲き乱れたり」と記され、次の和歌が伝わっています。
紫の雲をやといはむ藤の花 野にも山にもはえぞかかれる
「紫の雲」とは天子の瑞雲を指し、その瑞兆が広がっていく様子を、咲き誇る藤の花に託して詠んだものと考えられています。

宗良親王藤の和歌
いかはかりふかき江なれハ難波潟 松のミ藤の波をかくらん
この和歌は、後醍醐天皇の第五皇子・宗良親王(1311~1385?)によるものです。天授三年(1377)、信濃から吉野行宮へ戻った頃に詠まれた『千首詠歌』の中で、春の歌として選ばれています。宗良親王の父・後醍醐天皇は天皇親政を目指していました。この和歌は、松(天皇)のみが藤(藤原氏)を導く政治、すなわち天皇親政への願いを込めて詠まれたものとみなせます。

戦国時代
三好長慶 藤の和歌
『藤伝記第十一』:天文11年3月、三好長慶がまだ孫次郎教長と呼ばれていた頃、遊佐河内守長教の援兵として野田の城から出陣した。此の時、春日明神へ心願して、戦勝祈願の和歌を詠み奉納した。松笠菱の大旗を真先きにすゝませ、河内の国、落合の辺り高畑で、父の仇、篠原左京亮(木澤左京亮長政の誤りか)を討ちとり本意をとげた。この時、蜷川新介に書かせたという和歌が今に伝わる。
むらさきのゆかりならねと若艸や葉すへの露のかゝる藤原


戦国三好一族藤の和歌
元亀元年9月、三好三人衆が野田福島の城に籠城して、信長の大軍と戦った。戦国三好一族が藤の和歌を春日神社の奉納したと伝わる。そのいくつかを紹介する。 (『藤伝記第八』)
住かひや藤さく野田の神垣にちかひて是そ代ゝに伝ふる 三好山城守入道笑岩(康長)
こゝも又おなし心に春日さす光りにもれぬ藤の神垣 三好日向守長逸
難波江の流れハ音に聞へ来て野田の松枝にかゝる藤浪 三好下野守政康
藤かつら長きの色見へてむらさきふかし神の御前に 三好備中守長房

江戸時代の園芸書に見る野田藤
江戸時代初期、野田のフジの苗木は全国にもたらされ、江戸の植木職人の間ではフジの高級品種として珍重された。
日本最初の総合的園芸書「花壇地錦抄」に記載された野田藤
品種としての「野田藤」が文献に初めて登場するのは、意外にもお膝元の大阪ではなく江戸でした。
元禄8年(1695)、現在の東京都豊島区染井にあたる地で活躍した園芸家・三之丞伊藤伊兵衛が刊行した、日本最初の総合園芸書『花壇地錦抄』には、「野田藤」「野ふじ」「白藤」「大豆藤」「ひめふじ」「土用藤」などの名称が記されています。
染井は後に「ソメイヨシノ」の名で知られる園芸の地ですが、すでにこの時代、日本のフジは「野田藤」として認識されていたことがわかります。牧野富太郎博士が日本のフジの標準和名を「ノダフジ」と定める約200年前から、文献上では「野田藤」の名が用いられていたのです。

草木育種(そうぼくそだてぐさ)
野田藤は、早くから江戸の園芸家の間で高い人気を集めていました。園芸家にとって「野田藤」は、フジの中でも特別な存在であり、いわば高級ブランドだったのです。
江戸時代の園芸書『草木育種』には、次のような記述があります。
「摂津野田の藤は長さ四、五尺に至る。常の藤とは別なり、また花大にして短きものあり、また色ふじあり。」
この記述から、摂津・野田の藤が、花房の長さや花の大きさ、さらには花色の多様さにおいて、当時すでに他のフジとは一線を画す存在として認識されていたことがうかがえます。

錦絵・絵画に描かれた「野田藤」
浪花百景「のだふじ」
『浪花百景』は、江戸時代末期の安政年間(一八五四~一八六〇)頃、大坂の浮世絵師、歌川、歌川芳滝、歌川芳雪の合作による錦絵である。大坂市中と近郊の代表的な名所百選で、大坂の江戸時代の原風景と云うべきものである。この百選に「野田藤」が選ばれた。

浪華風流繁盛 野田の藤
桧垣眞種 天保4年頃

『浪華勝概帖 野田の藤』上田耕沖作。 弘化・寛政年間 (大阪市立博物館所蔵)

浪花百勝 野田ふじ
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「花の下影」野田藤
広瀬忠子氏所蔵。作者不明。津山藩の文人画家・広瀬臺山と思われる。広瀬 臺山(宝暦元年(1751) -文化10年10月13日)は江戸時代中期後期の文人画家。

地図に描かれた江戸時代の野田藤
大坂指掌図

新撰増補大坂大絵図

野田から地方に移植されたフジ
東京都江東区・亀戸天神の藤
花の天神様として知られる亀戸天神社(東京都江東区亀戸)は、九州・太宰府天満宮の神官で、菅原道真公の末裔にあたる菅原大鳥居信祐公によって建立された、由緒ある神社です。
寛文2年(1662年)には、社殿をはじめ、回廊、心字池、太鼓橋などが整備されました。このとき、境内のフジは大阪・野田からもたらされたと伝えられています。
三代目・歌川広重が描いた浮世絵『東都三十六景 亀戸天神境内』の解説には、「江戸一番の藤の名所は亀戸天神境内であり、名所中の名所である。植えられた品種は、大坂から導入された花房の長い野田藤である」と記されています。
その後、近世になって周囲が工場地帯へと変化したことでフジは次第に衰え、現在境内に咲くフジは三代目にあたります。

四国宇和島・天赦園の藤
四国・宇和島市にある国指定名勝「天赦園(てんしゃえん)」は、江戸時代末期に造られた大名庭園で、多くのフジが植えられた名高い藤の名所です。
池に架かる太鼓橋式の藤棚に咲く白玉藤はとりわけ壮観で、天赦園を代表する景観のひとつとなっています。その傍らには、宇和島藩五代藩主・伊達村候公が安永年間(1772~1780)、参勤交代の途中に摂津国野田村から持ち帰ったと伝えられるフジが植えられています。
このフジは、もとは人麿神社に植えられていたものが後に天赦園へ移植されたとされ、園内でも由緒ある一本として知られています。入口を入ると大きな藤棚が来園者を迎え、池を左手に庭園の奥へ進むと、野田ゆかりのフジを見ることができます。
形の整った池の周囲にはフジのほか、アジサイや菖蒲が配され、茶室も備えられた豪華な大名庭園の趣を今に伝えています。散策しながら、ゆったりと藤見を楽しめる名園です。

中山の大藤(福岡県柳川市)
福岡県柳川市三橋町の熊野神社にある「中山の大藤」は、享保年間(1716~1735)にその由来をもつ、由緒あるフジです。この地で酒蔵を営んでいた、通称「萬さん」と呼ばれる裕福な商人が上方見物の旅に出た際、高雄の紅葉や野田のフジを訪ね、途中で摂津国野田村に立ち寄りました。そこで藤の種を持ち帰り、自宅の庭に植えたのが始まりと伝えられています。当初は私邸の庭で育てられていましたが、十数年後、花房が四尺(約120cm)にも達する見事な花を咲かせるようになると評判が広まり、多くの人々が集まる名所となりました。中には酒に酔って刀を抜く武士まで現れたため、藤は熊野神社の社前へ移植されたといわれています。現在では二株十本の幹が地上約二メートル付近から四方へうねるように伸び、約1,200平方メートルにも及ぶ藤棚を隙間なく覆っています。棚の下に立つと、かつて野田村に咲き誇ったフジの美しさと豪快さを、今に伝える姿を実感することができます。

紀行文・小説に記録された野田の藤
ドイツ人医師・エンゲルバート ケンペルが見た野田の藤
元禄年間、長崎・出島に滞在していたドイツ人医師・博物学者の エンゲルベルト・ケンペル は、オランダ商館長に随行し、将軍 徳川綱吉 に拝謁するため江戸へ向かう途上、摂津国野田村に咲く藤を目にしました。
その記録によれば、人々は藤の根元に酒粕を施して養い、訪れる者は長く垂れる花房のもとに立ち、土地の神に祈りを捧げながら詩を残して花を称えたといいます。花は紫のみならず白も交じり、整然と咲きそろうその姿は、旅人の目にも格別の名勝として映ったのでしょう。


井原西鶴「好色2代男」”敵なしの花戦”に登場した野田藤
貞享元年(1684)に刊行された 井原西鶴 の浮世草子『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』(別名『好色二代男』)には、「敵無しの花軍(はないくさ)」と題する挿話が収められています。
物語では、越後の豪商・竹六が上方での見栄比べとして華麗な花の競演「花軍」を催した様子が描かれています。卯月六日、新町の吉田屋喜兵衛の屋敷北側の長縁に花桶を並べ、当時知られた名花を集めて人々の目を楽しませました。
その描写には、「春の名残の藤は野田、東洞寺の葉末を求め、生玉の若楓、佐太の芍薬、浅沢の杜若、中津川の花菖蒲……」とあり、大坂近郊の名だたる花名所が次々と挙げられています。釈迦誕生の花園にもたとえられるほどの華やかな情景でした。
注目すべきは、その筆頭に「野田の藤」が置かれている点です。数ある名所の中でも、春を締めくくる花として真っ先に名が挙げられていることは、当時すでに野田の藤が上方随一の花名所として広く認識されていたことを示しています。江戸初期の文学作品においても、その名は特別な存在として記されていたのです。


太田南畝「蘆の若葉」
江戸後期に一世を風靡した狂歌師・文人として知られる 大田南畝(蜀山人)は、幕府役人としての顔を持ちながら、文芸の世界でも高い評価を得た人物でした。享和元年(1801)に著した紀行随筆『盧の若葉』の中で、野田を訪れた折の印象を次のように書き残しています。
亭和辛酉3月 25日(中略)田のはたに石碑あり。左藤名所・舟津橋 右福島とありて、うらに山六十一郎といれり。すなはち左のかたに入れば、門前の木よりして、まづ藤咲かゝれり。門にいりてみるに、木々の末に藤さきかゝりて、紫の雲のごとし。また白き藤あり。これは天文2年巳8月9日、本願寺合戦の時、ここの藤焼き失せたりしが、その実ばえに白き藤咲て、そのふさ長しとぞ。春日社あり。3月21日より27日まで神楽を奏するという。碑あり。其文にいわく、貞治3年4月、藤波盛のころ、足利将軍義詮公住吉詣のとき、この地へ立ち寄らせ給い、池の姿を玉川となぞらえ、和歌を詠じ給う。住吉詣の記に見えたり。
いにしへのゆかりを今も紫の 藤浪かゝる野田の玉川 とあり、また、大閤御遊覧曾路利由緒庵という碑あり。御辰詠所古跡、藤庵の二字の額あり。みぎりの池は難波江の池の残れる也と縁起にしるせり。 かたえに弁才天の宮あり。ある茶屋によりて酒くみぬ。
むらさきのゆかりもあれば旅人の心にかゝる野田の藤波


池田正樹「難波囃」
安永2年(1773)、下総国関宿藩(千葉県関宿町)藩士池田正樹が玉川を訪れフジを見物した。閏3月16日昼時より野田村の藤(白多し)見物す。此所に春日の社あり。また藤のもとに平き青石あり。その表に玉川古跡とあり。高札に御免地歌名所とこれあり(『難波囃』)。
正樹がみた玉川古跡と読める”平き青石”は今も見られます。

貴人・文人藤の詠歌
第17代・伏見宮邦頼親王 宸筆 藤の和歌
水そこに宮さへふかき松かへに千歳をかけて咲がふじ浪
添書 摂津野田村 春日明神 伏見宮御信仰に依って 今度、藤御歌御染筆御寄付之所候仍添書件の如し
天明元辛丑年九月(1781) 殿上人・若江治部大輔昌長 神主 藤 和泉殿 この和歌は、第17代伏見宮邦頼親王(1733~1802)が、春日神社を信仰していたので、自ら筆を執り書いた和歌を家臣に奉納させたものと思われる。

京極宮・家仁親王宸筆 藤の和歌
幾春も花の盛りを松が登(と)に飛さしく来たれ宿の藤波

日野中納言資枝卿
春日山へたてぬはるの影しめて神やうへけん野田のふじか枝(キ)添書 摂州西成郡野田村 春日大明神 藤之詠歌 日野前中納言資枝卿 藤の御自歌 並びに御自詠共 右は御願所かねてよりその表て春日御社名所藤之御自詠歌 当家も藤氏の御縁別して厚く思われ則ち御自詠とも御神納なされ候なり 安永七年戌七月 日野家 岡本求馬 西野将監

暉宣詠歌 普寂院染筆
野田の里にふじあるとききて読み侍り候か 暉宣 名にしおう野田の藤波さきぬればみどり色そふ玉川の水 添書 名にしあふ 名詠歌の懐紙普寂院様御筆染められ候て賜りに成られ候 以上 下間主税 寛政七年 立春 朧月 頼恭 花押

寂如上人藤の和歌
浅緑いとよりかけて白露を玉にもぬけぬ春のきはみか 添書 歌 浅緑いとよりかけて 遂に御免奉り 寂如御真蹟無く なおあらかじめ小にわたり異論者也 順興寺 暮春十一日 常栄 花押
寂如上人(1651~1725)は西本願寺14世宗主良如上人の子である。

「野田の藤」にまつわる挿話
日本のフジ・三大名所
江戸の昔、人々は日本を代表する藤の名所として、「牛島のフジ」「春日野のフジ」「野田のフジ」を並び称えました。花の美しさだけでなく、それぞれに長い物語を秘めた三大名藤です。
なかでも、もっとも古い歴史をたどるのが「春日野のフジ」でしょう。遠く奈良時代、すでに『万葉集』には次の歌が収められています。
春日野のふぢは散りにて何をかも
御狩の人の折りて插頭さむ
― 詠人不知(10‐1974)
ここに詠まれる「御狩り」とは、鹿を追う狩猟ではなく、春の薬草を摘む行事のことです。いまも奈良の春日大社では春の神事としてその名残を見ることができます。巫女たちは簪に藤の花を挿し、神前に仕えますが、その姿は万葉の時代からほとんど変わっていないのかもしれません。
本殿の背後にそびえる御蓋山(三笠山)は神域として守られ、人の手が入らない原生の森が今も残されています。そこに咲くのは、花房がやや短く野趣に富んだヤマフジです。巫女の簪にかたどられた藤もまた、この山に咲く花の姿を写したものといわれています。
一方、武蔵国の名木として知られる牛島の大藤は、伝承では空海(弘法大師)のお手植えとされ、樹齢千二百年とも語り継がれてきました。現在の姿は、百年以上前に撮影された古写真と比べても大きく変わらず、時の流れを静かに見守り続けてきたことが分かります。
そして「野田のフジ」です。遅くとも平安時代末には存在していたと考えられますが、その名声が広く世に響いたのは安土桃山から江戸時代にかけてでした。「吉野の桜・野田の藤・高尾の紅葉」と童歌にも歌われ、人々の憧れの行楽地となったのです。
文献上の初見は延宝三年(1675)刊の『芦分舟』で、三大名藤の中ではもっとも遅い登場といえます。しかし、その後の評価は群を抜き、日本に自生する藤の標準和名に「ノダフジ」という名が与えられるまでになりました。
古歌に詠まれ、神事に寄り添い、あるいは都市の賑わいの中で人々を魅了してきた藤の花。三つの名所は、それぞれ異なる時代の記憶を宿しながら、日本人と藤との深い縁を今に語り続けているのです。

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牧野富太郎博士が日本のフジの標準和名を「ノダフジ」とした理由
明治四十四年(一九一一)十二月、牧野富太郎博士は『植物学雑誌』誌上において、日本に自生するフジの標準和名を「ノダフジ」と定めました。
一般には、「野田の藤が日本一美しかったから名付けられた」と語られることがあります。しかし史実をたどると、事情はむしろ逆であったことが分かります。
博士が実際に大阪・野田の地を初めて訪れたのは大正七年(一九一八)十二月六日のことでした。その時の印象を、後年次のように書き残しています。
――現在は市中となり、人家の中のわずかな空き地に、小さな社とフジが残っているに過ぎない。(中略)この野田は長い来歴があり、その保護について史跡名勝記念物係で一考すべきであると痛感する――
すなわち博士の目に映った「野田の藤」は、かつて江戸の人々を魅了した花の盛観ではなく、都市化の波の中で辛うじて歴史の痕跡をとどめる存在でした。命名当時すでに衰退の途にあり、「美しさ」が直接の理由であったとは考えにくいのです。
では、なぜ「ノダフジ」だったのでしょうか。
当時の植木職人、とりわけ東京の園芸界では、一般にフジを単に「フジ」とは呼ばず、「ノダフジ」と称する習慣が広く存在していました。園芸現場の呼称として定着していた名称を学術名へ取り入れることは、分類学者としてきわめて自然な判断だったといえます。
また、日本各地の山野に自生するヤマフジ――当時「ノフジ」とも呼ばれた系統――と区別する必要もありました。そのため都市文化の中で長く知られ、名称として既に社会的実体を持っていた「ノダフジ」が標準和名として採用されたのでしょう。
さらに、野田の藤には平安末期にまで遡ると考えられる長い歴史があり、江戸時代には名所として広く知られていました。その文化的来歴の重みも、博士の判断に影響した可能性があります。
皮肉なことに、博士が命名した頃、「野田の藤」は決して往時の華やぎを保ってはいませんでした。むしろ当時もっとも壮麗な姿で人々を魅了していたのは、武蔵国の名木として知られる牛島の大藤であったと伝えられています。
つまり「ノダフジ」という名は、単なる花の美醜ではなく、園芸文化の慣習、歴史の重み、そして学術的分類の必要性が重なり合って生まれた名であったのです。そこには、消えゆく名所の記憶を未来へ残そうとした博士の静かなまなざしさえ感じられます。



野田の藤はどのようにして有名になったのか?
江戸時代の初め、延宝年間(1670年前後)頃までは、野田の地は大坂の役の戦火によって大きく荒廃していました。しかし、そのわずか二十年あまりの後、「野田藤」は全国に名を知られる名花へと劇的な復興を遂げます。その歩みは、当時の文学や園芸書の記録からも明らかです。
貞享元年(一六八四)、町人文学の旗手であった井原西鶴が著した浮世草子『好色二代男』に野田の藤が登場し、すでに都市文化の中で広く知られた存在であったことがうかがえます。さらに元禄八年(一六九五)刊行の園芸書『花壇地錦抄』では筆頭に取り上げられ、その評価の高さは揺るぎないものとなりました。
この驚くべき普及の背景には、野田村で磨き上げられた高度な園芸技術がありました。とりわけ接ぎ木による増殖と品種改良の確立は画期的でした。実生から育てたフジが開花まで十年以上を要するのに対し、接ぎ木苗は数年で花を咲かせます。苗は軽く運搬しやすく、市場での売買も可能となり、「野田藤」はいわば“ブランド苗”として各地へ広まっていったと考えられます。
こうした評価は後世の植物学者にも受け継がれました。江戸後期の本草学者・岩崎常正が著した『草木育種』でも、野田藤は長く優雅な花房と格別の美しさを備えた園芸植物として高く評価されています。それは自然のままに生まれた花ではなく、人の眼と手によって選び抜かれ、守り育てられてきた「文化の花」であったことを物語っています。
焼け野原からわずかな年月で全国的名声を得た野田藤の歩みは、単なる植物史ではありません。そこには、復興を支えた人々の技と情熱、そして花を愛でる江戸の美意識が確かに息づいているのです。

浪花百景「野田藤」の謎
幕末に刊行された『浪花百景』は、大坂の町の名所と四季の風情を描いた錦絵で、浮世絵師の歌川国員、歌川芳滝、歌川芳雪による合作として知られています。その百景の一つに「野田藤」が選ばれていることは、当時すでに野田が大坂を代表する花の名所であったことを物語っています。
絵に描かれた藤は、整えられた藤棚ではありません。センダンの大木に自然のまま絡みつき、空へと奔放に伸びながら豪快に咲き誇っています。よく目を凝らすと、左下の木に絡む藤のツルは左巻きです。これはヤマフジの特徴であり、野田の藤の中にはヤマフジ系の白藤が多く混ざっていたことが分かります。当時の紀行文にも、その様子がはっきりと記録されています。
安永二年(一七七二)、下総国関宿藩の藩士であった池田正樹は玉川を訪れ、藤見物の記録を『難波囃』に残しました。そこには「閏三月十六日、昼より野田村の藤(白多し)見物す」とあり、白藤の多さが印象的であったことが伝わってきます。さらに春日の社の藤のもとには「玉川古跡」と刻まれた青石があり、高札には歌名所として御免地である旨が掲げられていたと記されています。
池田正樹が目にしたその「玉川古跡」の石は、今もなお春日神社(大阪市福島区玉川)の末社・白藤社の脇、井戸のそばに静かに残り、往時の記憶を今に伝えています。
藤の名所といえば、何百年も生き続ける古木を思い浮かべがちです。しかし野田では事情が異なっていました。そこにあったのは巨木の藤ではなく、若木を植え替え、また植え替えながら代替わりを重ねて咲き続ける藤の景観だったのです。
若い藤は勢いがあり、よく花をつけます。高く伸びて手の届かない場所に絡んだ藤であっても、見事に咲き誇りました。長く名所を守り続けるために、あえて世代を更新し続ける――それは自然に任せるのではなく、人の知恵と手入れによって育てられた景色でした。
野田の藤の美しさとは、単なる古木の威容ではありません。花を絶やさぬよう世代をつなぎ続けた先人たちの工夫と情熱、その積み重ねそのものが、名所の真の姿だったのです。


野田藤にかかわる伝承
玉川稲荷伝承
この稲荷は、春日神社の境内にあったが今はない。いつの頃よりか春日明神境内に年老いた夫婦の狐と一匹の娘狐とが住んでいた。家人は、娘狐を「松のをしげ」と名づけ可愛がっていた。或年の秋も半ば過ぎ、狐の家族がここを去るに際し置手紙を置いていった。そこには 「のぞみ口口かたしけなくてよろこびて まつのを志げ」と書いてあった。この置手紙も自分の尾で書いたものにちがいないと、家宝としたと伝えられる。

影藤伝説
ある朝家人が雨戸を開けようとして障子を見ると、紫藤の影が見事に写っていた。元資という老人はこの影藤を見ていたく感動したものとみえて次の歌を残している. 神代のゆかりを今も紫のかはらぬやどの影の藤浪


藤の棚の歌人・矢澤孝子
「関西の 与謝野晶子 」とも称され、明治末期から大正モダニズム歌壇において「関西随一の才媛」と高く評価された歌人・ 矢澤孝子(雅号・楓)は、明治38年(1905)から昭和18年(1943)までの38年間、春日神社 近くの「藤の棚」と呼ばれた地に暮らしました。
この一帯は、かつて「野田の藤」が咲き誇った土地として知られ、江戸時代以来、多くの文人墨客や花見客が訪れた名所でした。明治以降、往時の藤園は姿を変えながらも、春日神社周辺には藤の名残が受け継がれ、「藤の棚」と呼ばれる景観が地域の記憶として残されていました。
矢澤孝子は、その藤の気配に包まれた環境の中で創作を続け、「藤の棚の歌人」と呼ばれるようになります。自宅近くに咲く藤は重要な歌材となり、日々の暮らしの情景や季節の移ろいを繊細な感性で詠み上げました。
また彼女は和歌の同人会「藤之歌舎」を結成し、地域文化の中心として後進の育成にも尽力しました。野田藤の歴史とともに息づく春日神社周辺の文化的風土は、近代においても文学の花を咲かせ続けていたのです。

夕月のもとに見上ぐる三尺の藤の花より髪の重たさ(かえで)
夕ごとに出でて仰ぎぬむらさきの咲き初むる藤散り初むる藤
夕月は藤ちるかげにほの匂ふひとり寝るべき戸にはかへらじ
ゆかしさに歩みよりたるむらさきの藤のしづくにぬれし髪かな(はつ夏)
夕されば雲もこころも静まりて天地(あめつち)匂う白ふじの花(同)
現代の俳句に詠まれた野田藤
「野田藤を守る」 朝妻 力
棚を継ぎ足されて野田の藤若葉 谷野由紀子
平成十九年六月、春日神社前を歩いていると藤三郎ご夫妻が藤棚の手入れをされていた。瑞々しい若葉と今まさに伸びようとする蔓。こうして野田藤が守られているのだと実感。
古文書も広げ藤氏の夏座敷 原 茂美
野田藤をしづかに説ける夏座敷 朝妻 力
同日、藤氏の開設された「野田藤史料室」にお邪魔してその歴史を伺う。何しろ鎌倉時代初期から藤の名所としてしられているだけに、規模も歴史もとてつもなく奥深い。
石組みは藤庵移し藤の花 朝妻 力
下福島公園での一句。ここには旧藤庵から移された石組みがのこり、野田藤も植えられている。
藤の香や女宮司の所作凜と 中川 晴美
野田藤を後世に伝え守っている春日神社の春季例祭の一景。女宮司は藤三郎様の奥様です。
総括 ―― 時代を越えて咲き続ける「野田の藤」
中世の野田藤 ―― 権力と憧憬を映す花
中世において、まだ「野田の藤」という名は確立しておらず、人々はこれを「野田の細江に咲くフジ」あるいは「難波江のフジ」として認識していました。水辺にたおやかに垂れ咲くその姿は、都人の憧れを誘い、和歌の中では時の権力者の栄華や威勢を象徴する花として詠み込まれました。
難波の景観の中に揺れる藤は、単なる花ではなく、時代の権力と文化を映し出す存在だったのです。
江戸時代の野田藤 ―― 大坂を彩った植物文化の頂点
江戸時代になると、「野田の藤」は名実ともに大坂随一の花名所として広く知られるようになります。文人や旅人が訪れ、文学に記され、園芸書に名を刻まれ、人々は春の終わりを惜しむように藤見へと集いました。
鎖国のもと社会の価値観が大きく揺らぐことのなかったこの時代、藤園の景観も、それを取り巻く花見や詩歌、園芸の文化もまた、二百六十年という長い歳月の中で変わることなく受け継がれていきました。
「野田の藤」は、大坂の自然美と人々の暮らしが結びついた、植物文化の象徴そのものであったのです。
現代の「区の花・のだふじ」 ―― 物語が人を呼ぶ花へ
近代に入り、日本植物分類学の父と称される 牧野富太郎 博士が、日本のフジの標準和名を「ノダフジ」と定めたことで、その名は全国へ広まりました。
しかし「のだふじ」の魅力は、学名や分類だけにとどまりません。古代の神話や和歌、中世の記憶、江戸の花見文化、文人たちの紀行、そして地域に生きた人々の暮らし――幾重にも重なった物語そのものが、この花の価値を形づくっています。
いま「区の花・のだふじ」は、その歴史と物語を背景としたコンテンツツーリズムとして、多くの人々を惹きつけています。SNSでは「ノダフジの聖地」とも称され、訪れる人々は花の美しさだけでなく、時代を越えて受け継がれてきた記憶に触れるため、この地を訪れます。
野田の藤は、ただ咲くだけの花ではありません。
古代から現代へ、人の想いと文化を結びながら咲き続ける――
それこそが「野田の藤」という存在なのです。
※1 本ページの一部の画像はAIにより生成したイメージです。伝承や歴史的背景を表現したものであり、実在の人物・風景を再現したものではありません。
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