
春日神社と「野田藤」の歴史
はじめに
大阪市福島区玉川二丁目に鎮座する春日神社は、古くから地域の産土神として崇敬を集めてきた神社である。主祭神として天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、天照大神、宇賀御魂神を祀り、地域の守護と五穀豊穣、家内安全を祈願する信仰の中心となっている。
天兒屋根命は中臣氏・藤原氏の祖神として知られ、古代以来、祭祀を司る神として重んじられてきた神である。藤原氏の氏神である春日信仰は全国へ広まり、本社の祭神構成にもその系譜が色濃く反映されている。とりわけ藤原氏の象徴ともいえる「藤」との結び付きは深く、当地において藤の文化が発展した背景の一つと考えられる。
また天照大神は日本神話における最高神として皇室の祖神とされ、国家安泰や地域繁栄の象徴的存在である。宇賀御魂神は須佐之男命と神大市比売命との間に生まれた穀霊神と伝えられ、稲作をはじめとする農耕文化と密接に関わる神として信仰されてきた。
境内には末社として「白藤社」および「影藤社」が鎮座し、古来より藤に対する特別な信仰が伝承されている。これらの社は、当地が江戸時代に「野田の藤」として全国に名を知られた名所であった歴史を今に伝える存在である。
江戸時代、大坂近郊の野田・玉川一帯には数多くの藤園が広がり、「野田の藤」は春の行楽地として諸国から人々が訪れる花見の名所となった。文人墨客や旅人がその美しさを記録し、地誌や紀行文にも盛んに登場するなど、大坂文化を彩る景観の一つとして高く評価されていた。
しかし近代以降の都市化や戦災によって多くの藤園は失われた。それでも春日神社は地域の人々の信仰とともに存続し、藤にまつわる記憶と文化を守り続けてきた。戦後には地域住民による保存活動や植栽が進められ、「ノダフジ」は再び福島区を象徴する花としてよみがえりつつある。
現在も毎年四月二十九日には春の例祭が斎行され、氏子や参拝者が集い、地域の歴史と伝統を継承する重要な行事となっている。春日神社は単なる信仰の場にとどまらず、「野田藤発祥の地」の歴史を語り継ぐ文化的拠点として、今日も静かにその役割を果たしている。
春日神社と野田藤の歴史
大阪市福島区玉川二丁目に鎮座する春日神社は、古来より地域の産土神として尊崇を集め、野田・玉川一帯の歴史と文化を見守り続けてきた神社である。主祭神は天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、天照大神、宇賀御魂神であり、それぞれ地域の守護、国家安泰、五穀豊穣を司る神として崇敬されている。
天兒屋根命は中臣氏・藤原氏の祖神であり、古代以来、祭祀や政治・文化の守護神として重んじられてきた。特に藤原氏の氏神としての側面は、春日信仰を全国に広めた背景とも深く関わり、当地の藤にまつわる文化の発展にも密接に結びついている。藤の美と神聖性が地域文化の象徴となったことは、「野田の藤」の名声にも反映されている。
天照大神は日本神話における最高神であり、皇室の祖神としても知られる太陽神である。宇賀御魂神は須佐之男命と神大市比売命の間に生まれた穀霊神とされ、稲作文化や五穀豊穣の信仰と結びつく神として、農耕社会の生活と密接に関係してきた。三柱の祭神の配置は、神社の神威と地域文化の両面を象徴的に示している。
境内には末社として「白藤社」と「影藤社」が鎮座し、藤にゆかりの深い信仰が今に伝えられている。江戸時代には、野田・玉川一帯に広がる藤園群が春の名所となり、「野田の藤」は文人墨客の記録や紀行文に登場するなど、大阪文化を彩る景観の一つとして全国的に知られた。花房の美しさは多くの人々を魅了し、地域の経済活動や交流の場ともなった。
しかし都市化や戦災により多くの藤園は失われた。それでも春日神社は、地域の人々の信仰と努力により存続し、藤にまつわる文化と歴史を守り続けた。戦後には保存活動や再植栽が進められ、現在では「ノダフジ」として福島区の象徴的存在に復興している。
毎年四月二十九日には春の例祭が斎行され、氏子や参拝者が集い、神事とともに地域の歴史を伝える重要な行事として今日まで受け継がれている。春日神社は、単なる信仰の場にとどまらず、「野田藤発祥の地」としての文化的・歴史的価値を内包する地域拠点であり、その荘厳な佇まいは、未来に向けて地域の記憶と美を守り伝える使命を今も果たしている。
春日神社の起源
『大阪地誌事跡辞典』によれば、古くから野田は春日信仰の盛んな土地でした。春日信仰とは、奈良・春日大社の祭神である春日大明神(藤原氏の氏神・祖神である四座)を信仰するもので、興福寺がその実権を握り、各地に信仰を広めました。これにより春日詣でが盛んとなり、春日社の勧請や春日講の設立も増えました。
この流行は平安時代末期から鎌倉時代にかけてであり、野田の春日神社もその頃に勧請されたと考えられます。また、藤原氏にちなんで藤が植えられたところ、当地の地質に適してよく繁茂したと伝えられています。野田の春日神社は、奈良春日大社の分社とみなされています。

野田玉川のフジ ~平安・鎌倉時代から続く名所~
野田玉川は、平安時代末期から貴族たちの間で名所として知られていました。『源平盛衰記』には、平清盛の末弟・薩摩守が摂津国を巡った際、難波の浦の美しい風景を眺めながら感慨にふけった様子が記されています。
鎌倉時代には、現在の大阪市福島区野田玉川付近に「野田郷」という集落がありました。当時、このあたりには自然に生えたフジが一面に広がり、春になると松の枝から枝へと絡まり、まるで「花の浮き橋」のような光景を作り出していたと言われています。この景色を最初に詠んだのは当時の太政大臣・西園寺公経で、
難波かた 野田の細江を見渡せは 藤波かゝかる花の浮橋 西園寺公経
と歌に残しています。
さらに南北朝時代、室町幕府二代将軍・足利義詮も野田玉川を訪れ、その美しい藤の光景を絶賛しました。『義詮難波紀行』には、
野田の玉川のほとりに藤の花が咲き乱れる
と記され、同時に
紫の雲とやいわむ藤の花 野にも山にもはいぞかかれる 足利義詮
と詠まれています。このように、野田玉川のフジは長い歴史の中で、多くの人々を魅了してきた名所です。春になると、その伝統の美しさを今も感じることができます。
野田の藤と天文元年(1532)の戦乱
戦国時代半ば、織田信長誕生の二年前にあたる天文元年(1532)、畿内では大きな戦乱が起こっていました。本願寺第十世・証如上人と、畿内有数の武士勢力を率いた細川晴元との争いは足かけ四年半に及び、「畿内天文の一向一揆(または一向法華の乱)」と呼ばれています。戦乱が始まった同年八月九日、戦火は本願寺の膝元にまで迫り、証如上人は危機的な状況に陥りました。その際、野田村の門徒たちは命を懸けて上人を救出し、そのため二十一人が討死したと伝えられています。証如上人は、この忠義を深く称え、討死した門徒たちの子孫に宛てて感状を与えました。この感状は現在、圓満寺(大阪市福島区玉川四丁目)および春日神社に大切に伝えられています。

戦乱がもたらした「野田の藤」の被害
この合戦によって野田の地は戦火に巻き込まれ、家屋敷のみならず、当時すでに名高かった藤の木々も焼失したと伝えられています。江戸時代には「野田の藤」は浪華随一の名所として知られるようになりますが、その背景には、戦国の動乱によって一度大きな被害を受けた歴史がありました。戦乱の中でも守られ、あるいは再び植え継がれてきた藤は、地域の人々の信仰と結びつきながら受け継がれてきたのです。

証如上人感状(原文)
「野田惣中へ 證如
今日の合せんに廿一人、うち死にのよし、いたはしさ、せひにおよはず候。しかれども、しやう人の御方を申されたのも、しくありがたく候。うち死にの方々は極楽往生を遂げられ候はん事、疑いなく候。いよいよ知行頼み入り候。このよし知死のあとへも伝えられ候。あなかしく、々々。
八月九日 證如
野田惣中へ」

藤とともに伝わる信仰の証
その後、証如上人から方便法身の阿弥陀如来像が藤家当主へ下賜されました。この尊像は現在も春日神社に伝えられており、戦乱の中で命を賭して上人を守った野田の人々の信仰と忠義を今に伝えています。「野田の藤」は単なる花の名所ではなく、地域の歴史と信仰、人々の結びつきの中で受け継がれてきた文化遺産といえるでしょう。

「野田福島の合戦」(1回目)
戦国時代末期の元亀元年(1570)九月、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三名、いわゆる三好三人衆は野田・福島の城に籠城し、畿内制圧を進める織田信長を迎え撃ちました。これが「野田福島の合戦(第一次)」と呼ばれる戦いです。
この合戦は、その後およそ十年にわたり続く石山合戦(大阪本願寺合戦)の発端となり、畿内の情勢を大きく動かす契機となりました。
当時、春日神社は野田城の北東部に位置し、戦場に極めて近い場所にありました。
戦乱を生き延びた春日神社の藤

戦国時代には戦乱が相次ぎ、野田の細江一帯もたびたび戦火にさらされました。そのため、この地に繁茂していた藤の多くは、軍事的理由による伐採や戦火によって失われたと考えられています。しかし、そのような激動の時代の中にあっても、春日神社周辺の藤は奇跡的に生き延びたと伝えられています。やがて天下は豊臣秀吉による統一の時代を迎えます。戦乱を乗り越えて残された藤は、その後「野田の藤」として再び人々に愛され、江戸時代には浪華随一の名所として名声を高めていくことになります。
秀吉の藤見物伝承と「野田の藤」の全盛期
春日神社に伝わる『藤伝記』には次のように記されている。
文禄三年春、太閤秀吉公、藤の花盛の頃、義詮公も古跡をしたわれた地だということで、ひこばへの花ゆかしく思われ御遊覧に来られ、藤の庵で御茶を催された。興に乗って、藤庵の文字を御傍衆の曽呂利に書せ、藤主へ下し給ふ。代々に伝へ、世の人知る所第一の什物である。
以後、周囲には多くの茶店や楼閣が建ち並び、庶民の間で野田藤は一躍名所として知られるようになった。「吉野の桜、野田の藤」と小節を付けたわらべ歌にも謡われ、広くもてはやされて後世に伝えられている。野田藤が最も繁栄し、人々に親しまれた全盛期は、まさにこの頃であった。



大坂の役の前哨戦「野田福島の合戦」(2回目)で壊滅した「野田の藤」
野田:
福島といふ所より西のかたあにあたりて 名にしおふたる野田という里あり。されば「吉野の桜に、野田の藤、高尾の紅葉」などと、熊野の海女 犬うつ童も唱歌しける名所 これ見ても見ても見飽ぬなるべし そのかみ慶長年中の頃まで(大坂の陣まで) 見物の貴賤 群集して この藤を愛でぬ人はなかりしとや されども 時移り事去り 楽し日月 華やかな時の 楼閣なども人住まぬ野良となり、所々に 此の方ばかり残りて 昔のフジの古枝は枯槁せり。

同じ頃、大和の国学者・下河辺長流(ながれ)も藤家の屋敷に逗留し、次のような詞書と和歌を残した。
咲く花の下にかくるゝ人おほみとよめるうた哥ハ、いにしへ藤氏の栄花のさかりによせたるなるべし。これハ近き世に豊臣の太閤あさの衣のひとへよりおこりて、つゐに我大やまとをさへおほひ余れる袖のいきほひ、遥かなる唐土までもおびやかし玉ふる時に、あひに相たるさかりを見へて、名ハ高浜の松のひゝきと四方に聞へし藤なりけむ、今その古根のひこはへ猶いほり庭に残りて春を忘れぬかた見なりければ、ゆかりの色を尋ね来りてみる人の絶ぬもあわれなり、それが中にほり江の河の長き流れを名とせる翁ありてかく敍みたりし
ミつ塩の時うつりにし難波津に有りし名残の藤波の花 長流

「藤伝記」と野田の藤の歴史
「野田の藤」には、長い栄枯盛衰の歴史があります。その歩みを今に伝える重要な史料が「藤伝記」です。この古文書は、鎌倉時代から江戸時代初期に至るまでの「野田の藤」の由来や変遷について記したもので、藤家九代当主・藤宗左衛門宗慎が、断片的に伝えられてきた記録や伝承、さらには伝説を収集・整理し、貞享三年(1686)にまとめたものとされています。 原本は現在失われていますが、宝暦年間(1751〜1764)頃に編集された写本が春日神社に伝えられています。さらに本書は版本として出版され、その一つが国立国会図書館に所蔵されています。「藤伝記」は、戦乱や災禍を幾度も乗り越えてきた「野田の藤」の歴史を知るうえで欠かすことのできない史料であり、地域の記憶を今に伝える貴重な文化遺産といえるでしょう。




「藤乃宮」と言われた野田藤の最盛期
宝暦・天明期にみる「野田の藤」の復興
宝暦八年(1758)頃、度重なる戦乱によって荒廃していた春日神社は、ようやく復興を遂げました。
記録によれば、同年寅年三月二十一日から四月二十五日まで、本社修覆のための開帳が行われています。この折には代官の内藤十右衛門が藤見物に訪れたことが伝えられており、神社の再興とともに藤の名声も再び高まりつつあったことがうかがえます。
さらに天明四年(1784)三月十九日には、大坂城の御城代であった戸田因幡守が参拝し、境内の藤を観賞したと記録されています。
また天明九年(1789)には、幕府巡見使として派遣された遠藤兵太夫、杉原八左衛門、三宅権十郎らが藤見物のため来訪しました。これらの記録から、当時すでに「野田の藤」が広く知られる名所として、多くの人々を惹きつけていたことがうかがえます。

摂津名所図会に描かれた春日社と野田藤
寛政八年(1796)から同十年(1798)にかけて刊行された、秋里籬島著、竹原春朝斎画による名所案内記『摂津名所図会』には、次のように記されている。
天文年中逆乱時、この藤、兵火に罹りて亡ぶ。ただ古跡のみとなりしを、文禄年中秀吉公ここに駕をめぐらされ、紫藤の僅かに残りしを御遊覧あり。その時、御憩所の亭を藤の庵と名づけさせられ、御傍衆曾呂利新左衛門に額を書かせ下したまふ。その後、秀吉公御曾甥、下河辺長流といふ風流人ここに来り詞書して一首の和歌を詠まれける。
春日祠 野田村、林中にあり。当所藤によりて藤原の祖神を祭るならんか 野田藤 春日の林中にあり。むかしより紫藤名高くして、小歌節にも、吉野の桜、野田の藤と唄へり。弥生の花盛りには、遠近ここに来りて幽艶を賞す。茶店、貨食店ところどころに出だして賑ふなり。

藤野田村とよばれた幕末近くの野田藤
昭和五十二年(1977)、大阪市福島区玉川四丁目の圓満寺において建物の改装工事が行われた際、床下から江戸時代後期の近世古文書約五千点が発見された。これらの調査により、野田村を「藤野田村」と記した文書が三十二例確認されている。
この呼称は、文政四年(1821)から慶応二年(1866)までの約四十五年間にわたり、宗旨送り状などに用いられていたことが判明した。もとは野田村の住民が自らの村を「藤野田村」と称していたものが、やがて他村からの送り状にも同様の表記が用いられるようになったと考えられる。
その使用範囲は江戸の寺院や安芸国倉橋島にまで及び、広い地域で確認されている。これらの文書は、野田が藤の名所として庶民の間に自然に広く認識されていたことを示す、きわめて貴重な史料である。
なお、「藤野田村」という名称は公的文書には見られず、民間において愛称的に用いられていた呼称であったと考えられている。

明治・大正・昭和・平成の「野田藤」
明治時代の野田藤
明治三十六年(1903)に刊行された『大阪年中行事』によれば、維新前に野田の藤の大部分は伐採され、その後は小規模な藤棚にまとめて育てられるようになり、往時の面影は失われたと記されている。
近頃は玉川も名ばかりで、芥川になって居る。勿論山吹などは影も見えぬ。以前は野生の藤の古いのもあって、一寸風みやびに見られたけれど、維新前に伐り払って、其後また植ゑたのであるから、今度は極て俗な柵の藤になって居る。その棚の下に床凡を置いて、藤見の客を引くのであるが、何処へ来ても趣味が無い。割子弁当で騒ぎ廻る客ばかりで、花は悲しさうに俗客の玩弄物になって居る。
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牧野富太郎が日本のフジの標準和名をノダフジと命名
牧野富太郎(1862~1957)は、日本の植物分類学の基礎を築き植物学の父と言われる。幼少の頃から植物が好きで山野を駆け巡り植物採集・写生・観察に没頭した。17歳の頃江戸時代の本草学者小野蘭山の手による「本草網目啓蒙」に出会い、上京し本格的に植物学研究の道に入りました。 22歳の時、東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りするようになり]、25歳で、『植物学雑誌』を創刊した。明治44年(1911)、この誌上で、日本のフジの標準和名をノダフジ(フジーツルは右巻)と命名しました。合わせてヤマフジ・シナフジも命名しています。


大正時代の野田藤
大正の頃の野田フジと春日神社は、『大阪府全志』に次のように記録されている。
野田の藤は玉川町一丁目にあり、古来有名なる野田の玉川の藤にして、貞治三年足利義詮は住吉参詣の途次駕を巡らしてこれを賞し、その姿を玉川に擬して和歌を詠ぜしかば、是れより野田の玉川の藤とは称せしとなん。池辺に石を建て其の歌を刻せり。当時の藤花はすこぶる盛んなりしものならん。然るに天文年中兵火に遇ひて亡失し、遂に昔日の名残を存せるに過ぎざりしが、文禄年中豊臣秀吉は此に駕を巡らして尚これを賞し、亭を藤の庵と号し、曾呂利新左衛門をして額を書かせしめてこれを下付せりといふ。(以下略)
昭和8年5月12日、日本のフジの標準和名をノダフジと名付けた植物学者・牧野富太郎博士が、野田の藤の調査に訪れました。


空襲と洪水により壊滅した野田藤
第二次世界大戦末期の昭和二十年(1945)六月一日の空襲により、「藤庵」と呼ばれた屋敷はフジとともに焼失し、多くの古文書や書画・骨董類も失われた。その後、一時はフジも再び息を吹き返したが、昭和二十五年(1950)九月のジェーン台風による高潮で塩水の冠水被害を受け、さらに周辺環境の変化による日照条件の悪化も重なって樹勢は衰え、やがて花を咲かせなくなった。
昭和四十六年(1971)、阪神高速道路神戸線の建設工事に伴い、藤庵の庭を有した家屋も立ち退きを余儀なくされた。この際、最後まで残されていた二本のフジの古木は老衰が進んでいたため移植は困難と判断され、やむなく伐採された。
藤庵の庭はその後、下福島公園へ移設された。また、春日神社境内には大阪市により「野田藤の跡」の石碑(写真右)が建立され、フジの古木は野田玉川の地から完全に姿を消した。こうして、長きにわたり受け継がれてきた野田藤の歴史は、大きな節目を迎えることとなった。
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ライオンズクラブによる野田藤の復興活動
その後、野田の藤は地元の人々の記憶からも次第に忘れ去られていった。昭和四十六年(1971)、大阪福島ライオンズクラブ創立メンバーの一人であった藤田正躬氏(フジタ病院長)と、玉川の歯科医である伯方時夫氏は、郷土史『玉川百年のあゆみ』の中から忘れられていた「野田の藤」の記録を見いだした。
これを契機として、ライオンズクラブは組織を挙げて復興活動に取り組むこととなった。


「福島区の花」となった「のだふじ」
こうした関係者の尽力と区民の協力に応えるかたちで、平成七年(1995)、「のだふじ」は大阪市福島区の花に指定され、地域振興やまちづくりの象徴として新たな役割を担うようになった。
それまで区の花とされていたビンカ、マリーゴールド、バラからの変更には多くの調整が必要であり、関係者は大きな苦労を重ねた。当時はさまざまな印刷物や施設表示などに旧区花の意匠が用いられていたため、それらを野田フジへ改めるには多大な労力と費用を要した。
しかし現在では、区職員の名刺をはじめ各種広報物や案内表示に野田フジの花をあしらった区のシンボルマークが採用されているほか、町名表示も藤色に統一されるなど、地域の景観やイメージづくりに広く活用されている。

「のだふじの会」による開花活動
フジは適切な手入れを行わなければ花を咲かせることが難しい花木である。ライオンズクラブによる植栽と保全の努力にもかかわらず、福島区内各所に植えられたフジは、平成十八年(2006)頃には次第に開花が見られなくなっていった。
こうした状況を受け、平成十八年(2006)七月、連合町会、ライオンズクラブ、福島区医師会の協力のもと、区民によるボランティア団体「のだふじの会」が設立された。
福島区地域振興会(連合長会)の支援を得て、会員一人ひとりの熱心な活動が続けられた結果、現在では福島区内約三十か所の藤棚で再びフジの花が咲くようになっている。

令和 コンテンツ・ツーリズムとなった「区の花・のだふじ」
令和二年(2020)、人気アニメ『鬼滅の刃』においてフジの花が鬼を退ける存在として描かれたことを契機に、子どもたちを中心にフジへの関心が高まった。
続く令和五年(2023)には、植物学者牧野富太郎博士を主人公としたらんまんが放送され、日本のフジの和名「ノダフジ」の命名者として知られる同博士の業績とともに、「ノダフジ」発祥の地とされる春日神社の名も広く知られるようになった。
さらに令和六年(2024)、新五千円札の裏面にノダフジが意匠として採用されたことにより、春日神社とその境内に咲くフジは大阪を代表する観光名所の一つとして注目を集めている。
近年では、SNS上において「ノダフジの聖地」と称されることも多くなった。
また、大阪府内の「住みやすい街(自治体)」ランキングにおいて福島区が上位に選ばれた際には、その理由の一つとして「フジで知られる春日神社」の存在が挙げられている。
福島区を訪れる人々は、ノダフジにまつわるさまざまな歴史や物語(ナラティヴ)に思いを巡らせながら、「区の花・のだふじ」の美しさを楽しんでいる。


藤氏についての挿話
「畿内天文の一向一揆」で活躍した三郎左衛門(藤氏六代目)
天文三年、畿内一帯を揺るがした天文の一向一揆において、本願寺方は一時、劣勢に追い込まれていました。しかし戦局は、晴元方の武将であった三好伊賀守連盛の寝返りによって大きく動きます。
本願寺第十世法主・証如の命を受けた三郎左衛門は、中嶋八か村の門徒を糾合し、一揆軍を編成しました。そして連盛と力を合わせ、要衝であった椋橋城を攻略します。この戦いでは、敵を誘い込んで一気に包囲する「釣り野伏せ」の戦法が功を奏し、晴元軍を打ち破りました。この勝利は本願寺方の形勢を一挙に逆転させ、畿内戦局の流れを決定づけるものとなったのです。
その功績によって、野田衆は本願寺の直参門徒という特別な地位を与えられました。さらに阿弥陀如来像が野田惣道場――後の圓満寺(大阪市福島区)――へ下賜されます。これは単なる褒賞ではなく、信仰共同体としての忠節と結束が認められた証でもありました。
この名誉は時代を越えて受け継がれ、今日も西本願寺の報恩講において重要な役割として伝承されています。
三郎左衛門の子孫は江戸時代になると庄屋を務め、地域の中心として村政を担いました。そしてもう一つ、大切な役目を守り続けます。それが「野田の藤」です。戦乱を乗り越えた信仰と土地への責任は、やがて花を守る営みへと姿を変え、代々受け継がれてきました。
今日に咲く野田の藤は、ただの名花ではありません。戦国の動乱の中で結ばれた信仰の絆と、先人たちが守り続けた歳月そのものが、静かに花房の中に息づいているのです。

「寛政の改革」で小さな役目を果たした藤原和泉守延敬(藤氏十一代)
天明七年(一七八七)、老中の松平定信は「寛政の改革」に着手し、疲弊した幕政の立て直しを進めました。その過程で行われたのが、前政権を担った田沼意次派の徹底した粛清でした。
その標的の一人となったのが、直参旗本の青木楠五郎です。楠五郎は田沼派との密接な関係のもと接待や取引を重ね、私財を蓄えたのではないかと疑われていました。さらに追い打ちをかけたのが、年貢米を運ぶ輸送船の難破でした。弁済資金の穴埋めのため、周辺の村々から多額の借金を重ねていたことが問題視されたのです。
天明七年、村々の代表として藤原延敬(宗左衛門)が江戸へ召喚されました。大目付による厳しい取り調べの場で、延敬は楠五郎の借財の実情について証言します。幕府の威信を背負う裁きの場で語られたその証言は、やがて楠五郎の運命を決定づけることになりました。
年貢金の私的流用や不正な資金調達を厳しく咎められた楠五郎は、翌天明八年、遠く伊豆七島の一つである八丈島への遠流を命じられます。中央政界の権勢を背景にした旗本であっても、改革の波から逃れることはできませんでした。
一方、延敬が後に残した父・宗信の画像賛には、善悪を声高に論じることなく、ただ静かに耐え忍ぶ人物像が記されています。激動の時代にあって、表に立つことなく責務を果たした者の姿が、そこには淡々と刻まれているのです。

有名人の祖先も住んでいた「藤の棚」
江戸時代、花見の名所として栄華を極めた「野田の藤」も、明治維新を目前にしてその大半が切り払われました。時代の大きな転換の中で、かつて人々を魅了した藤の風景は静かに姿を消していったのです。
しかし藤の記憶は失われませんでした。明治から戦前にかけて、春日神社(大阪市福島区玉川)周辺一帯は「藤の棚」と呼ばれていました。小さな藤棚と社が点在し、その周囲には庭付きの平屋の借家が並ぶ、どこかのどかな町並みが広がっていたと伝えられています。
現在、その名残は藤の棚児童公園(福島区玉川四丁目)という地名に受け継がれています。往時の藤棚の面影を今に伝える、ささやかな記憶の標(しるべ)です。
この地には、多くの人々が青春の日々を過ごしました。「フジの棚の歌人」と呼ばれた矢沢孝子もその一人ですが、もう一人忘れてはならない人物がいます。後に宇部興産コンツェルンを築き上げた実業家、俵田明です。
俵田は明治三十六年(三月)から三十八年六月までこの地に居住し、大阪府立北野高等学校の前身である北野中学や、のちの大阪YMCAに通いながら学びました。なお彼は、元内閣官房長官・衆議院議員の林芳正の曾祖父にあたります。
俵田明はもともと長州藩家老・福原越後の家臣の家に生まれました。しかし維新後、多くの藩士と同様に家は没落します。新しい時代の中で頼るものを失った青年は、この「藤の棚」で苦学の日々を送りました。借家の一室で学問に励み、中学卒業資格を得て英語を修めた努力が、のちに日本有数の企業グループを築く礎となったのです。
藤の花が揺れていた町は、ただの名所ではありませんでした。時代に翻弄されながらも志を失わなかった若者たちを見守り、新しい時代へ送り出した場所でもあったのです。
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『浪花のみやび野田の藤』
「なにわのみやび野田のふじ」
藤 三郎 著 / A5判 / 上製 / 198ページ
定価4,180円(本体3,800円+10%税)
鎌倉時代の貴人から江戸時代上方見物の庶民にまで名高く知られた野田のふじ。その伝承と変遷を綴る。

ページ一覧
~神社とフジを知る~

春日神社と「野田藤」の歴史

ノダフジの文化史
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フジの咲かせ方

フジの種類
~フジを見る~

春日神社のフジの開花状況

野田藤発祥の地・福島区のフジ名所
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西日本のフジ名所

東日本のフジ名所
~ご案内~

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