野田藤の文化史

中世藤の和歌にみる野田藤

西園寺公経藤の和歌-鎌倉時代初期-

難波かた野田の細江を見渡せは 藤波かゝかる花の浮橋   公経

鎌倉時代初め、淀川河口近くには野田郷と呼ばれる集落がありました。現在の大阪市福島区野田・玉川付近にあたります。当時、この一帯には藤が一面に自生し、春になると松の枝から枝へと絡み合い、まるで「花の浮橋」のような景観をつくり出していたといわれています。

この風景を、当時の太政大臣・西園寺公経が詠んだのが上記の和歌です。公経は鎌倉幕府と深い関係を持ち、朝廷内で大きな権力を有していました。この和歌は、朝廷と幕府の間で栄華を誇る自身の立場を、「花の浮橋」に重ね合わせて詠んだものとも解釈されています。

「野田の細江」の痕跡(中央の横に長い入り江)「大坂の役」の推定地形図(参謀本部作成)

足利義詮の住吉詣で

貞治三年(1364)春、室町幕府二代将軍・足利義詮は、住吉詣での途中に野田に立ち寄り、藤を見物したと伝えられています。その折に詠んだ和歌を、春日神社に奉納したとされています。『義詮難波紀行』には、「それ(田簑島)より南にあたりて、野田の玉川というところあり。この川のほとりに藤の花が咲き乱れたり」と記され、次の和歌が伝わっています。

紫の雲をやといはむ藤の花 野にも山にもはえぞかかれる

「紫の雲」とは天子の瑞雲を指し、その瑞兆が広がっていく様子を、咲き誇る藤の花に託して詠んだものと考えられています。

宗良親王藤の和歌

いかはかりふかき江なれハ難波潟 松のミ藤の波をかくらん

この和歌は、後醍醐天皇の第五皇子・宗良親王(1311~1385?)によるものです。天授三年(1377)、信濃から吉野行宮へ戻った頃に詠まれた『詠千首和歌』の中で、春の歌として選ばれています。宗良親王の父・後醍醐天皇は天皇親政を目指していました。この和歌は、松(天皇)のみが藤(藤原氏)を導く政治、すなわち天皇親政への願いを込めて詠まれたものと

戦国時代

三好長慶 藤の和歌

『藤伝記第十一』:天文11年3月、三好長慶がまだ孫次郎教長と呼ばれていた頃、遊佐河内守長教の援兵として野田の城から出陣した。此の時、春日明神へ心願して、戦勝祈願の和歌を詠み奉納した。松笠菱の大旗を真先きにすゝませ、河内の国、落合の辺り高畑で、父の仇、篠原左京亮(木澤左京亮長政の誤りか)を討ちとり本意をとげた。この時、蜷川新介に書かせたという和歌が今に伝わる。

むらさきのゆかりならねと若艸や葉すへの露のかゝる藤原    

(伝)三好長慶藤英華(春日神社所蔵)

戦国三好一族藤の和歌

元亀元年9月、三好三人衆が野田福島の城に籠城して、信長の大軍と戦った。戦国三好一族が藤の和歌を春日神社の奉納したと伝わる。そのいくつかを紹介する。 (『藤伝記第八』)

住かひや藤さく野田の神垣にちかひて是そ代ゝに伝ふる    三好山城守入道笑岩(康長)

こゝも又おなし心に春日さす光りにもれぬ藤の神垣      三好日向守長逸                         

難波江の流れハ音に聞へ来て野田の松枝にかゝる藤浪     三好下野守政康     

藤かつら長きの色見へてむらさきふかし神の御前に      三好備中守長房               

江戸時代の園芸書に見る野田藤

江戸時代初期、野田のフジの苗木は全国にもたらされ、江戸の植木職人の間ではフジの高級品種として珍重された。

日本最初の総合的園芸書「花壇地錦抄」に記載された野田藤

品種としての野田藤が文献に初めて登場するのは、意外にもお膝元である大阪ではなく、江戸でした。

元禄8年(1695年)、現在の東京都豊島区染井にあたる地で活躍した園芸家・三之丞伊藤伊兵衛が刊行した、日本最初の総合的園芸書『花壇地錦抄』には、「野田藤」「野ふじ」「白藤」「大豆(まめ)藤」「ひめふじ」「土用藤」といった名称が記されています。

染井といえば「ソメイヨシノ」の名で知られる園芸の地ですが、すでにこの時代、日本のフジは「野田藤」として認識されていたことがわかります。
牧野富太郎博士が日本のフジの標準和名を「ノダフジ」と定める約200年前から、日本のフジは文献上「野田藤」と呼ばれていたのです。

「花壇地錦抄」野田藤(右上)

草木育種(そうぼくそだてぐさ)

野田藤は、早くから江戸の園芸家の間で高い人気を集めていました。園芸家にとって「野田藤」は、フジの中でも特別な存在であり、いわば高級ブランドだったのです。

江戸時代の園芸書『草木育種』には、次のような記述があります。

「摂津野田の藤は長さ四、五尺に至る。常の藤とは別なり、また花大にして短きものあり、また色ふじあり。」

この記述から、摂津・野田の藤が、花房の長さや花の大きさ、さらには花色の多様さにおいて、当時すでに他のフジとは一線を画す存在として認識されていたことがうかがえます。

錦絵・絵画に描かれた「野田藤」

浪華勝概帖 野田の藤
「浪花百景」野田藤
「花の下影」より野田藤

野田から地方に移植されたフジ

東京都江東区・亀戸天神の藤

花の天神様として知られる亀戸天神社(東京都江東区亀戸)は、九州・太宰府天満宮の神官で、菅原道真公の末裔にあたる菅原大鳥居信祐公によって建立された、由緒ある神社です。

寛文2年(1662年)には、社殿をはじめ、回廊、心字池、太鼓橋などが整備されました。このとき、境内のフジは大阪・野田からもたらされたと伝えられています。

三代目・歌川広重が描いた浮世絵『東都三十六景 亀戸天神境内』の解説には、「江戸一番の藤の名所は亀戸天神境内であり、名所中の名所である。植えられた品種は、大坂から導入された花房の長い野田藤である」と記されています。

その後、近世になって周囲が工場地帯へと変化したことでフジは次第に衰え、現在境内に咲くフジは三代目にあたります。

「東都三十六景」亀戸天神内

四国宇和島・天赦園の藤

四国・宇和島市にある国指定名勝 天赦園(てんしゃえん) は、江戸時代末期に造られた大名庭園で、多くのフジが植えられた名高い藤の名所です。

なかでも、池の上に架かる太鼓橋式の藤棚に咲く白玉藤は壮観で、天赦園を代表する景観のひとつとなっています。そのかたわらには、宇和島藩五代藩主・伊達村候(むらとき)公が、安永年間(1772~1780年)、参勤交代の途中に摂津国野田村から持ち帰ったフジが植えられています。

このフジは、もとは人麿神社に植えられていたものが、後に天赦園へ移植されたと伝えられています。園内にはこのほかにも多くのフジが植えられており、入口を入るとまず大きな藤棚が来園者を迎えます。池を左手に見ながら庭園の奥へ進むと、野田から移植された由緒あるフジを見ることができます。

形のよい池の周囲には、フジをはじめ、アジサイや菖蒲が随所に植えられ、茶室も配された豪華な大名庭園の趣を今に伝えています。庭園を散策しながら、ゆったりと藤見を楽しむことができる名園です。

宇和島・伊達文化保存会ご提供

中山の大藤(福岡県柳川市)

福岡県柳川市三橋町の熊野神社にある「中山の大藤」は、享保年間(1716~1735年)にその由来をもつ、由緒ある藤です。

この地で酒蔵を営んでいた、通称「萬さん」と呼ばれる裕福な商人が、上方見物に出かけた際、高雄の紅葉や野田のフジを見物し、旅の途中で摂津国野田村に立ち寄りました。そこで藤の種をいくつか持ち帰り、自宅の庭に植えたのが始まりと伝えられています。

当初は自宅の庭に植えられていましたが、十数年後、花房が四尺(約120cm)ほどにもなる見事な花を咲かせるようになると、その美しさに人々が集まり、酒に酔って刀を抜く武士まで現れたため、藤は熊野神社の社前へ移植されました。

現在では、2株10本の幹が地上約2メートル付近から四方へうねるように伸び、約1,200平方メートルにも及ぶ藤棚を隙間なく覆っています。藤棚の下に立つと、このフジが、かつての野田村に咲き誇っていたフジの美しさと豪快さを、最もよく今に伝えている存在ではないかと感じさせられます。

篠原赤士区長(柳川市三橋町中山)ご提供

紀行文・小説に記録された野田の藤

ドイツ人医師・エンゲルバート ケンペルが見た野田の藤

1690~1692年まで長崎・出島に滞在していたドイツ人医師で園芸家の**エンゲルバート・ケンペル(Engelbert Kaempfer)は、オランダ商館長に同行し、将軍・綱吉に拝謁するため江戸へ向かう途中、このフジを目にしました。

当時、人々は酒の粕をフジの木の周りに撒いて肥料にしており、訪れる人々は長く美しい花を見て、その場に宿る神に祈り、褒め称える詩を残していました。花房は長く、色は紫または白で咲きそろっていました。「野田の藤」には、意外にも白いフジが混ざっており、これは白カピタン(ヤマフジ系)でした。

この白カピタンは、ノダフジより生命力が強く、その子孫は現在も大阪・福島区の公園で見ることができます。

Wikipediaより

井原西鶴「好色2代男」”敵なしの花戦”に登場した野田藤

貞享元年(1684)に刊行された、西鶴の「諸艶大鑑しょえんおおかがみ」、別名「好色二代男」という短編集に「敵無しの花軍はないくさ」という挿話があります。 越後の竹六という大商人は、始めて都に上った時は、京の六条の一日買いをしたとか。見栄っ張りのこの男、大阪では卯月(4月)6日、新町の「吉田屋喜兵衛」の北面の長縁に花桶をならべ、花軍をしたといいます。 「春の名残の藤は野田・東洞寺の葉末をもとめ、生玉の若楓、佐太の芍薬、浅沢のかきつばた、中津川の花菖蒲・・・釈迦誕生ましますも、かかる花園にてのことや。」 当時の大阪の花名所がずらりと並んでいる中で、その筆頭が「野田の藤」でした。

Wikipediaより

太田南畝「蘆の若葉」

一世を風靡した狂歌師蜀山人、昼の顔は幕府役人であった大田南畝は『盧の若葉』(享和元年1802)に、野田を訪れ次のように書き残した。

亭和辛酉3月 25日(中略)田のはたに石碑あり。左藤名所・舟津橋 右福島とありて、うらに山六十一郎といれり。すなはち左のかたに入れば、門前の木よりして、まづ藤咲かゝれり。門にいりてみるに、木々の末に藤さきかゝりて、紫の雲のごとし。また白き藤あり。これは天文2年巳8月9日、本願寺合戦の時、ここの藤焼き失せたりしが、その実ばえに白き藤咲て、そのふさ長しとぞ。春日社あり。3月21日より27日まで神楽を奏するという。碑あり。其文にいわく、貞治3年4月、藤波盛のころ、足利将軍義詮公住吉詣のとき、この地へ立ち寄らせ給い、池の姿を玉川となぞらえ、和歌を詠じ給う。住吉詣の記に見えたり。
いにしへのゆかりを今も紫の 藤浪かゝる野田の玉川 とあり、また、大閤御遊覧曾路利由緒庵という碑あり。御辰詠所古跡、藤庵の二字の額あり。みぎりの池は難波江の池の残れる也と縁起にしるせり。 かたえに弁才天の宮あり。ある茶屋によりて酒くみぬ。
むらさきのゆかりもあれば旅人の心にかゝる野田の藤波

太田南畝画像(ウィキペディアより)

池田正樹「難波囃」

 安永2年(1773)、下総国関宿藩(千葉県関宿町)藩士池田正樹が玉川を訪れフジを見物した。閏3月16日昼時より野田村の藤(白多し)見物す。此所に春日の社あり。また藤のもとに平き青石あり。その表に玉川古跡とあり。高札に御免地歌名所とこれあり(『難波囃』)。

正樹がみた玉川古跡と読める”平き青石”は今も見られます。

白藤者横の大きな井戸傍にある石板

貴人・文人藤の詠歌

第17代・伏見宮邦頼親王 宸筆 藤の和歌

   水そこに宮さへふかき松かへに千歳をかけて咲がふじ浪

 添書 摂津野田村 春日明神 伏見宮御信仰に依って 今度、藤御歌御染筆御寄付之所候仍添書件の如し

 天明元辛丑年九月(1781) 殿上人・若江治部大輔昌長          神主  藤 和泉殿  この和歌は、第17代伏見宮邦頼親王(1733~1802)が、春日神社を信仰していたので、自ら筆を執り書いた和歌を家臣に奉納させたものと思われる。

伏見の宮新王宸筆(春日神社所蔵)

京極宮・家仁親王宸筆 藤の和歌

幾春も花の盛りを松が登(と)に飛さしく来たれ宿の藤波

京極の宮宸筆の和歌(春日神社所蔵)

日野中納言資枝卿

春日山へたてぬはるの影しめて神やうへけん野田のふじか枝(キ)添書 摂州西成郡野田村   春日大明神 藤之詠歌 日野前中納言資枝卿 藤の御自歌 並びに御自詠共 右は御願所かねてよりその表て春日御社名所藤之御自詠歌 当家も藤氏の御縁別して厚く思われ則ち御自詠とも御神納なされ候なり 安永七年戌七月 日野家 岡本求馬 西野将監

日野中納言藤の和歌(春日神社所蔵)

暉宣詠歌 普寂院染筆

野田の里にふじあるとききて読み侍り候か    暉宣   名にしおう野田の藤波さきぬればみどり色そふ玉川の水     添書 名にしあふ 名詠歌の懐紙普寂院様御筆染められ候て賜りに成られ候 以上 下間主税    寛政七年 立春 朧月 頼恭 花押   

普寂院藤の和歌(春日神社所蔵)

寂如上人藤の和歌

浅緑いとよりかけて白露を玉にもぬけぬ春のきはみか 添書 歌 浅緑いとよりかけて 遂に御免奉り 寂如御真蹟無く   なおあらかじめ小にわたり異論者也 順興寺 暮春十一日  常栄 花押 

 寂如上人(1651~1725)は西本願寺14世宗主良如上人の子である。

寂如上人御詠歌(春日神社所蔵)

野田藤にかかわる伝承

玉川稲荷伝承

この稲荷は、春日神社の境内にあったが今はない。いつの頃よりか春日明神境内に年老いた夫婦の狐と一匹の娘狐とが住んでいた。家人は、娘狐を「松のをしげ」と名づけ可愛がっていた。或年の秋も半ば過ぎ、狐の家族がここを去るに際し置手紙を置いていった。そこには 「のぞみ口口かたしけなくてよろこびて まつのを志げ」と書いてあった。この置手紙も自分の尾で書いたものにちがいないと、家宝としたと伝えられる。

狐の置手紙(春日神社所蔵)

影藤伝説

ある朝家人が雨戸を開けようとして障子を見ると、紫藤の影が見事に写っていた。元資という老人はこの影藤を見ていたく感動したものとみえて次の歌を残している.         神代のゆかりを今も紫のかはらぬやどの影の藤浪 

矢島喜平次「大阪見物」(1850)より野田の影藤
影藤社(福島区玉川2)

藤の棚の歌人・矢澤孝子

「関西の与謝野晶子」とよばれ、明治末期から大正モダニズム歌壇において「関西随一の才媛」ともてはやされた歌人・矢澤孝子(雅号・(かえで))は明治38年(1905)から昭和18年(1943)まで38年間、春日神社近く「藤の棚」とよばれたところに住んでいた。「藤の棚の歌人」と呼ばれていた。後に和歌の同人会「藤之歌舎」も結成している。自宅近くの藤を詠んだ和歌。

夕月のもとに見上ぐる三尺の藤の花より髪の重たさ(かえで)              夕ごとに出でて仰ぎぬむらさきの咲き初むる藤散り初むる藤夕月は藤ちるかげにほの匂ふひとり寝るべき戸にはかへらじゆかしさに歩みよりたるむらさきの藤のしづくにぬれし髪かな(はつ夏)                     夕されば雲もこころも静まりて天地(あめつち)匂う白ふじの花(同)

矢澤孝子(「矢澤孝子歌集」より

現代の俳句に詠まれた野田藤

「野田藤を守る」     朝妻 力

 棚を継ぎ足されて野田の藤若葉    谷野由紀子

平成十九年六月、春日神社前を歩いていると藤三郎ご夫妻が藤棚の手入れをされていた。瑞々しい若葉と今まさに伸びようとする蔓。こうして野田藤が守られているのだと実感。

古文書も広げ藤氏の夏座敷      原  茂美

野田藤をしづかに説ける夏座敷    朝妻  力

同日、藤氏の開設された「野田藤史料室」にお邪魔してその歴史を伺う。何しろ鎌倉時代初期から藤の名所としてしられているだけに、規模も歴史もとてつもなく奥深い。

石組みは藤庵移し藤の花       朝妻  力

下福島公園での一句。ここには旧藤庵から移された石組みがのこり、野田藤も植えられている。

藤の香や(おみな)宮司の所作凜と      中川 晴美

野田藤を後世に伝え守っている春日神社の春季例祭の一景。女宮司は藤三郎様の奥様です。

総括

中世の野田藤—時の権力者の権力の象徴

中世には「野田の藤」とは言われていなかった。「野田の細江に咲くフジ」、あるいは「難波江のフジ」と認識されていた。そのフジは時の権力者の権力の象徴として、和歌に詠まれていた。

江戸時代の野田藤—大坂の植物文化の象徴

江戸時代になると、「野田の藤」は大阪の植物文化の象徴で広く庶民に親しまれていた。江戸幕府は鎖国をしていたので、人々の価値観は変わなかった。野田の藤の景観もそれを取り巻く文化も江戸時代260年間を通じて変わることはなかったのである。

現代の「区の花・のだふじ」—コンテンツツーリズム

牧野富太郎博士が、日本のフジの標準和名を「ノダフジ」と命名したことに加え、野田藤を取り巻く長い歴史と数々の「物語」を背景とした”コンテンツツーリズム”として、「区の花・のだふじ」は、人々を楽しませている。SNS上では、「ノダフジの聖地」とももてはやされている。

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